痛い事を言ってくれる人
昨日に開催された、毒虫に刺された人の会。
終わってから自分の過去を振り返っていました。
私はDVの人と同棲していて、渦中の時はDV被害にあっていても、別れたいとは思えませんでした。
その人無しには、寂しすぎる。
その人を手放したくないけども、辛さを抱えておきたくなかった私がいて…
矛盾してる自分にも苦しんでいました。
DVされた事を、誰にも言わなかった訳ではありません。寂しさベースの満たされ無い思いを、誰かに聞いてもらいたいという欲求はありました。
その欲求を満たすため、私は聞いてくれる相手で話すパターンを分けていました。
被害を面白おかしく話して、強がって深刻ではない自分を演じるパターン。
「かわいそう」という同情が欲しくて、悲劇のヒロインを演じるパターン。
逆にDVされたことを話さなかった人は「そんな人とは別れないとダメ」と言ってくる人。
「ダメ」って事は分かってる。
でも、それが出来ない自分がいるのも分かってる。
それは、寂しさに流されている弱い自分。
その弱い自分を突かれるのがイヤでした。
自分は間違いを犯してる愚かな人と思われたくないプライド?
何だったのかを、コレだと限定して単語には出来ないけれど、弱かったなと振り返り思います。
別れろとしきりに言う人は、当時、私の事を一番分かってくれてると思っている人でした。
その分かってくれてる人に分かってもらえないのも、イヤでした。
結局、会う度に別れろと言われるのが嫌で、その人とは距離を置いてしまう様になりました。 今はもう、付き合いはありません。
でも、誰が一番私の事を分かって親身になってくれていたかと思うと、別れろと言ってくれていた彼女だったなと思います。
耳が痛い事を言われるから聞きたくない、という思いがある内は渦からは出られません。
耳が痛いと感じる事を言ってくれる言葉が、芯を突いている事もあります。
痛いと感じる第三者の言葉の中に、自分が向き合うべき問題があるのではないでしょうか。
相手の言う耳が痛い言葉を全面的に受け入れて、なんて言いません。
耳が痛い言葉を、痛いって感じる自分がいる、という事を知ること。
そこから前に進む一歩が始まるのではと、私に一生懸命言ってくれていた彼女を浮かべ思います。
今は痛い事を言ってくれる人の気持ちを、分かる様になろうと思える様になれました。
愛情を持ち、痛い事をあえて言い続けてもらえたツバキ先生のお陰で、解毒出来たからなんだと自分を振り返り思います。
痛い言葉を「痛い」ままにするか、そこから一歩踏み出してみるか。
その痛い言葉の後ろに愛情が隠れてるかもしれません。
同じ様な境遇で、私と同じ様に聞きたく無い事を避けている人がいるのではないか、という思いで、このブログを書きました。